このごろよく考えているのは「当たり前という言葉の意味、インフレしすぎでは?」ということ。
そこからいろいろ考えて書いたこの記事の要点は
- 当たり前がきっちりできるひとはものすごく少ない
- 個々人の能力差よりも「当たり前」をちゃんとできるかのほうが大事
- 仮に能力で劣っていても「当たり前」をきっちりやるだけで戦えるのでは
というものです。
「当たり前」という言葉で語られることは、たいてい当たり前ではない
前から思っていたけど、「当たり前」って言葉のハードルってものすごく高くありませんか。
やって当たり前のことなんて、実は世の中のどこにもないんじゃないか。
「当たり前」という言葉は、もともとは自戒を込めた意味があったんだろうけど、いまではその意味は、あまりに字面から離れて独り歩きしすぎているように思います。
僕の感覚では、「当たり前」という言葉は「技術的な難しさはない代わりに面倒くさい。だけどなまけずにやれば(当たり前に)できること」というニュアンスがあると思っています。
「やれば大体の人ができるけど、めんどくさくて大体の人がやりたくないこと」が昨今の「当たり前」の意味合いなんじゃないかな。
うん、ハードル高いって。やっぱそれ当たり前じゃないよ。
当たり前のことをきっちりやれる時点で「当たり前」ではない
それを踏まえた上で考えると、世に言う「当たり前」をキッチリできるひとってその時点で相当すごいのではないかと。
たとえば「準備」というのは「次にやることがわかってるなら、やって当たり前のもの」として使われることが多い言葉。
だけど実際には、この「準備」を本当にちゃんとできるひとって一握り。
全体を見通して段取りを考えたり、根回ししたり、ケース別の対応方法を考えておいたり。
めんどうくさがらなければできるはずのことだとしても、これをできるひとは超レアですよ。
まとめ:「当たり前」ができる人は凄いし、誇っていい。
この記事の結論は「当たり前」ができるひとは凄いし、誇っていいということ。
そして、別の切り口でもうひとつ言うなら「ひとがなまけてやらないことをやれるひとは強い」ということ。
仕事ができるとかできないという能力なんて、実は同じ人間ならそんなに変わらない。
それ以前に「手を抜かない」とか「妥協しない」という資質が、実は能力よりも大事なことなんじゃないかな。
そしてこれは言い換えると「能力で勝てない時は態度(=自分の見せ方)で勝負せよ」ということでもあって。
「自分をどう勝負させるか」とか「どう見せるか」という自己プロデュースの方法をわかっていると、だいぶ生きやすくなる気がします。
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