一行日記4/27 豆苗育て中。

言語化とは、自分の内面の壁を塗り替える「絵の具」を作ること

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脳内メモ
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最近ずっと考えて続けていること。

それは「言葉にすると消えてしまうことがある、はきれいごと」というもの。

ちょっと前まで、僕は

  • 言語化する過程で失われていく情報は必ずある
  • その些細なディテールを大事にしていきたい
  • だから、できるだけ「言語化」はしないほうが良い

と思っていました。

でもこれって聞こえはいいけれど、それはある意味「逃げているだけなんじゃないか」とも思ったわけです。

今日はそのことについて、いま思っていることを書いておきます。

言葉にしない限りは、価値観は塗り変わらない

僕は「自分の価値観をアップデートすること」がものすごく好き。

いつまでも同じ自分でいたくない。

どんどん変わっていきたい。

そこでやっぱり強く思うのは「どんなに良質なインプットを得ても、言葉にして思考しない限りは、自分の価値観は塗り変わらない」ということ。

何かをインプットしたら、

  • 感じたことをちゃんと言葉にして
  • ブログなどでアウトプットして
  • それを時間が経ってからまた眺める

それを繰り返していくことで、初めて前に進める。

例えるならこれは、自分の内面の壁の色を、絶えず塗り替えていくような作業。

言語化とは、自分の内面の壁を塗り替える「絵の具」を作ること

ラピスラズリを砕いてつくられる絵の具に「本瑠璃」というものがあります。

画家は、宝石を砕いてつくったそれを、絵筆に乗せて絵を描いていたといいます。

それと同じように、僕は「インプット」という宝石を取り込んでも、それを自分の言葉で言語化しない限りは自分を塗り替えるための「絵の具」をつくれないと思っています。

どんなに硬くても、自分の力で小さく噛み砕いて、自分が使える「絵の具」をつくる。

そうしてつくった絵の具で、自分の内面の壁を少しずつ塗り替えていく。

そうしなきゃ、どんなに優れたインプットも「眺めて美しい置物」のまま。

「言語化」という行為は、そういう「絵の具化」の作業なんだと思います。

まとめ:宝石を手に入れたとき、それを砕いて絵の具にできるか。

宝石を手に入れたとき、多くの人はそれを観賞用としてそのまま大事に保管するでしょう。

でも一方で、それを粉々に砕いて「絵を描くための道具」に変えてきた人達もいる。

どっちが正しいなんてことはない。

けれど、僕は「宝石を砕いて絵の具として使ってしまえるひと」がかっこいいと思っています。

そして、自分もそうでありたい、とも。

なぜなら「かっこいいからそうなりたい」というのは、最強にシンプルでピュアな動機で、それに従うことを大切にしたいと思っているからです。

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