このごろはnoteとかブログ記事で他人が書いた文章を読んだあとは、できるだけ自分のコメントを付けてツイッターに流すようにしています。
今日から試してるのは、読んだ記事をそのまま「ふーん」で終わらすんじゃなくて、自分のコメントをつけてインターネットに出してみること。
インターネットに出ていない情報は存在しないも同じだけど、出せば誰かが見てくれる。何かにつながると思うからhttps://t.co/gyw75gBYTf
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年5月4日
それについてちょっと考えたことを記事にしておきます。
アウトプットがあって初めて意味あるインプットになる
いちばん思うのは「アウトプットがあって初めて意味あるインプットになる」ということ。
自分の言葉で再解釈して、それをまたインターネットに流すというのは、けっこう頭を使う作業。
でも、その過程で、読んだ内容がちゃんと消化される。
逆に言えば「アウトプットしないインプットはただの娯楽どまり」ということ。
もちろん、娯楽も大事。
だけど、そのうちの何%でもいいから、ちゃんと自分なりの解釈をコメントにつけて、公開してみる。
これは小さなことだけど、自分の引き出しを増やす良い訓練になると思っていて。
積み重ねると将来大きく育つ芽になるんじゃないかな。
歩く自分の足元を照らすのは自分の言葉。
インターネットは光もあれば闇もある。
だから、別に無理して読んだ全部に対して、自分なりのコメントを付けて公開する必要はない。
自分に合わなかったら、スルーしてもいい。
だけど、自分がいいと思ったことは、自分の言葉でシェアしていくようにしたい。
プラスのコメントをつけて公開することで、少なくとも、自分の半径1メートルは明るく照らすことができるから。
まとめ:この世にハッピー増やすためにできることはやっていく。
考えてみれば、誰かの書いた文章に感想を付けて返すことってハッピーしか無いわけで。
- 書いた側は反応がもらえて嬉しい
- 読んだ側は文章に落とし込む過程でインプットを自分の血肉にできる
なんとなく恥ずかしくて、読んだ記事を「いいな」って思って終わりにしちゃうことが多いけど、今後は極力アウトプットしていきたい。
できれば、書いた本人に届くように。
世の中をハッピーで満たすのは、案外こういう小さなことなのかもしれないな、と思っています。
関連記事:メモに手書きするのはやめて極力インターネットに公開していくことにした
関連記事:言語化とは、自分の内面の壁を塗り替える「絵の具」を作ること