人生というオープンワールドゲームには、ポケモン赤緑並みにバグ技キメる余地が残されてると思ってる。むしろバグらせたもん勝ちなのでは。まじで人生たのしんでるひと、みんなミュウ出してるのでは。
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年2月14日
ひとのことをみて「あいつはズルしてる」とひがむタイプの人間にはならないように気をつけたい。たとえそれがズルだとしても、いったんモラルという思考の足かせを捨てて、どういうメカニズムなのか、何がいまの自分に応用できるかを考えないことには、いつまで経っても何も変わらない。
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年2月14日
正気のまま帰ってこれるギリギリのところまで、足を伸ばして踏み込めるか。息が切れる限界の深さまで一心に潜ることができるか。そういう行動をしない限りは「異次元の工夫」には手が届かない
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年2月14日
不快な手触りの情報は良質なインプットの証
自分がいま持っている常識って、外から何らかの刺激がない限りは上書きされないもの。
そしてこの場合、その刺激っていうのは、大体「不快」なものなんですよね。
なぜなら、これまで当然と思っていた自分の中の常識に土足で上がりこまれて、いきなりひっくり返されるわけだから。そりゃムカッとくるわ。
でも、僕は、その「不快」こそが大事なバロメータだと思っています。
不快な手触りのものほど、たどっていけば「自分がまだ見えていないもの」につながっている、と思うから。
ひがむのではなく、同じ側に立てるよう工夫する
これと同じことは「努力のアプローチの仕方」についても言える。
はたからみて「そのやり方はずるいでしょ」というやり方は、自分にとって不快な情報。
なぜなら、自分の中の常識では考えることのできなかったものだから。まさに異物。
でも、それって自分が勝手に引いた「マイルール」の枠組みの中の理論で、結局は「ひとりよがり」なんですよね。
僕は、モラルさえ守っていれば、公式のルールの範囲内なら何をやっても自由だと思っています。だって、そもそも、そのためのルールなんだから。
ルールギリギリまで踏み込めているひとは、自分の頭で考えているひと
むしろ、ルールのキワキワまで踏み込めるひとは、それだけ工夫しているということ。
いまのやり方でどこまで踏み込めるか、努力を最大化するためにはどうするか。
その思考のサイクルを回し続けないことには、ルールのキワキワまで近づいていくことはできない。
だから、僕は「しっかり踏み込めているひとはちゃんと自分の頭で考えて動いているひと」だと思っています。
他人のものさしで生きているひとよりも、何倍も立派。もし自分自信がそうできていないのなら、むしろ積極的に真似していくべきです。
だから「自分の常識に照らし合わせて不快なやり方」に遭遇した時は、その人の工夫を「ずるい」と思わないマインドを持ちたい。
自分と異なる考え方であっても、それを賞賛して自分も「そっち側」に立つことで、自分の価値観が上書きされて、その結果、自分も次にステージに行けるので。
まとめ:ズルと異次元の工夫は紙一重。
つまるところ、ひとの工夫を「ずるい」と思ってしまうのは、自分のなかで工夫に対するアンテナが鈍っているから。
勝手にルールにマージンを取って小さくまとまっていたら、リスクを背負ってないわけだから、そりゃ出遅れる。
そうやって思考停止している状態だと、なにもかもずるく見えてくる。
だけど、アンテナを伸ばしていれば、それらはぜんぶヒントになりうる。
誰もあなたを止める人はいない。そんなにみんな、人のことを気にしちゃいない。
他人の目を気にしすぎないこと。お行儀良くまとまり過ぎないこと。
積極的に人生をバグらせるくらいの意気込みで生きていくことが、人生を最大まで楽しめるコツなのかもしれません。
関連記事:脱・まじめの罠。ルールのギリギリまで踏み込む勇気を持とう
関連記事:ある分野でトップに立ちたかったら、まずは怒られるまでやり込もう。話はそれからだ。