一行日記11/27 炊飯器でつくるポトフ楽でいい

「書く」ことで自分の中の可能性を削り出すことができる

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脳内メモ
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思ったことの羅列。
きれいにはまとまってないけど、やっぱり書く。

  • ひとはみな、自分の中にひとかかえの岩みたいなものをもっている
  • 書くということは自分の「岩」を削り出す行為
  • いろんな角度とやり方で自分の「岩」の中身を探ってみること

書くことは、自分でも知らなかった自分を知る行為

この頃、ブログに自分の考えをたくさん書くようになってつくづく不思議に思うのは「こんな記事を自分が書いたんだ」ということ。

正直なところ、ふだんの生活では全くといっていいほどこんなことは考えていなくて。
でもだからといって、そんなこと微塵も考えていないかといったら、それは違う。

どの記事も、書いたのは紛れもなく自分自身で。
「書く」という行為を通して、今まで出会わなかった自分に出会っているような気分になります。

掘ってみなければ自分の中に何が埋まっているかもわからない

自分の「岩」の中に埋まっているものはきっと「天然資源」みたいなもので。

みな、なにかしらの「資源」を岩の中に持っていると思う。
つまるところ、それを「生きている間に見つけ出せるかどうか」だけなんじゃないかな。

思えば、学校とかは、その岩に検査用の注射をして組織を取り出して、その人の適性をみる場所だったのかな。

でもそういう場では、針はどうしても最小公倍数的なものになるし、「資源」まで届かないことのほうが多い。
だから自分でいろんなことを試して、自分の適性を検査することが必要なのだ。

一番簡単にできるのは、岩の表面をペリペリと剥がしていくこと。
それが「書く」という行為なのかなと思う。

毎日一枚ずつ薄皮を剥がしていけば、どこかで自分の適性がみえてくる。
その繰り返しで、自分の「資源」をみつけようとすることが大事なんじゃないかな。

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まとめ

こう考えると、やっぱりひとは、必要なものは全て持っているんだと思う。
それをうまく認識して、必要な時に使えるかどうかという話で。

やっぱり「書く」という行為は、自分の可能性を削り出す行為。
また何か思いついたら書きます。

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