この前すごく良いnoteを読んだので、それをきっかけに「才能」という言葉について思ったことを記事にしておきたいと思います。
才能はこなした量。あたかも恵まれた一部の人だけの特権のように語って、自分がやらない理由にしがち。「才能」という言葉に逃げないこと。
社会人になった頃の自分に贈りたいことば|阿部広太郎 @KotaroA|note(ノート) https://t.co/siTXhn76Jt
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年5月22日
「才能」という言葉は逃げ道を作るための都合の良い幻想
上のツイートのnoteを読んで思ったことは、「才能」という言葉は、逃げ道を作るための都合の良い幻想なんだなということ。
周りから才能があると羨まれている人はみな、才能なんて言葉は知らない。
そんな余計なことを考えるヒマなんてないくらいに、常に手と頭をフル回転で動かし続けている。
一方で「自分には才能なんて無い」と思っているひとは、本当にその通りの結果になる。
なぜなら、「才能がない」という言い訳が自分の中でできてしまっているため、いつかどこかで努力することをやめてしまうから。
うまくいくかどうかというのは、結局はこの差なんだと思っています。
もし才能というものがあるとしたら、それは自分で生み出すもの
僕はやっぱりいちばん大事なのは「やめない」ということだと思う。
「自分はこれだ」と決めたものについては、本当に才能の勝負になる前にやめないこと。
ここまでしがみつけば、自然とその時点で相当のトップ層に食い込んでいるはず。
そして、そこまで残った時点で才能は間違いなくある。
つまり才能っていうのは、逆説的だけど、自分の意志で「生み出せる」ものなのではないかと。
そして才能の差っていうのは、「これまでに生み出した才能の差」なんじゃないかと。
別にこの考え方が正しいかどうかなんてわからないし、それはどうでもいいこと。
ただ、僕はこの説を信じたい。
だってそうでもなけりゃ、救いがなさすぎるから。
まとめ:終わり続ける今を、一分一秒を、惜しもう。
人生において「自分に才能があるないか」なんてことを悩んで考えている時間ほど無駄な時間って無い。
途中で諦めることは、いつでも、誰にでもできる。
だからこそ、そこで膝をつかずに、自分という存在を背負って、一歩でも遠くまで歩みを進めることができるかどうか。
いまは常に終わり続けているという感覚を持って生きることが、才能を超えるなによりの上達のコツなんじゃないかな、と思っています。