一行日記5/3 伊藤礼先生のエッセイはいいぞ

「当たり前」の事ができるひとは「当たり前」ではない。

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脳内メモ
この記事は約3分で読めます。

このごろよく考えているのは「当たり前という言葉の意味、インフレしすぎでは?」ということ。

そこからいろいろ考えて書いたこの記事の要点は

  • 当たり前がきっちりできるひとはものすごく少ない
  • 個々人の能力差よりも「当たり前」をちゃんとできるかのほうが大事
  • 仮に能力で劣っていても「当たり前」をきっちりやるだけで戦えるのでは

というものです。

「当たり前」という言葉で語られることは、たいてい当たり前ではない

前から思っていたけど、「当たり前」って言葉のハードルってものすごく高くありませんか。

やって当たり前のことなんて、実は世の中のどこにもないんじゃないか。

「当たり前」という言葉は、もともとは自戒を込めた意味があったんだろうけど、いまではその意味は、あまりに字面から離れて独り歩きしすぎているように思います。

僕の感覚では、「当たり前」という言葉は「技術的な難しさはない代わりに面倒くさい。だけどなまけずにやれば(当たり前に)できること」というニュアンスがあると思っています。

「やれば大体の人ができるけど、めんどくさくて大体の人がやりたくないこと」が昨今の「当たり前」の意味合いなんじゃないかな。

うん、ハードル高いって。やっぱそれ当たり前じゃないよ。

当たり前のことをきっちりやれる時点で「当たり前」ではない

それを踏まえた上で考えると、世に言う「当たり前」をキッチリできるひとってその時点で相当すごいのではないかと。

たとえば「準備」というのは「次にやることがわかってるなら、やって当たり前のもの」として使われることが多い言葉。

だけど実際には、この「準備」を本当にちゃんとできるひとって一握り。

全体を見通して段取りを考えたり、根回ししたり、ケース別の対応方法を考えておいたり。

めんどうくさがらなければできるはずのことだとしても、これをできるひとは超レアですよ。

まとめ:「当たり前」ができる人は凄いし、誇っていい。

この記事の結論は「当たり前」ができるひとは凄いし、誇っていいということ。

そして、別の切り口でもうひとつ言うなら「ひとがなまけてやらないことをやれるひとは強い」ということ。

仕事ができるとかできないという能力なんて、実は同じ人間ならそんなに変わらない。

それ以前に「手を抜かない」とか「妥協しない」という資質が、実は能力よりも大事なことなんじゃないかな。

そしてこれは言い換えると「能力で勝てない時は態度(=自分の見せ方)で勝負せよ」ということでもあって。

「自分をどう勝負させるか」とか「どう見せるか」という自己プロデュースの方法をわかっていると、だいぶ生きやすくなる気がします。

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