今日書きたいのは「ルールを守ること」それ自体を目的にしてしまうことの恐ろしさについて。
本来ルールというのは、適切な制限を加えることでプレイヤーの創意工夫を促すためのものであるはず。
みんながおびえて「ルールまでの余白」を多くとって活動してる中、ルールのギリギリまで創意工夫で踏み込めるひとはかっこいい。
自分もそうでありたい、という自戒を込めた記事。
ルール遵守にとらわれすぎるとやることが小さくなる
ルールを守ろうという意識自体はとても良いもの。
でもそこをあまりに気にしすぎると、自分のやることが小さくなってしまうもの。
たとえば、「明らかにルールの範囲内なのに、誰もやってないきわどいこと」は誰もやらなくなる。
みんな、ルールの端までの余白を多く取ろうとする。
そして変な探り合いの末、その余白がそのコミュニティでの「ふつう」になってしまう。
これってすごくもったいないことだな、と。
勇気を持ってギリギリまで踏み込めるひとが突き抜けられる
いま思っているのは、そういう状況で「ルールのギリギリまで踏み込めるひと」が強いなということ。
ここのスタンスの持ちようで、その集団の中で自分がどういう存在になるかが、かなり決まってくるんじゃないかな。
そもそも、同じ人間である以上、そこまで能力に差なんて無い。
やるかやらないか、ただそれだけであることって想像以上にたくさんあって。
そのひとつが、この「ルールのギリギリまで踏み込む勇気を持てるか」ということだと思うんです。
まとめ:無意味な同調圧力に従う必要はない
どうしてみんな、そこまでルールにとらわれてしまうのかというと、それは「場」にはいつも、ある種の同調圧力があるものだから。
ギリギリまで踏み込んでいる誰かを後ろから指さして、「ルール上ではたしかにあそこまでやっていいだろうけど、そこまではやらんでしょ普通」とバカにすることほどかっこ悪いことはない。
この記事では別に「ルールなんてバカらしいから積極的に破っていこうぜ!」というアナーキーなことを言いたいわけではないです。むしろルールはちゃんと守ろう。
まぁ、盲目的にルール遵守至上主義に陥るのもどうかとは思うけど……。
でも、少なくとも、伸びていくひとに「ルール大好き人間」はいない。伸びるのはいつも、良い意味で空気を読まないひと。
ちゃんと自分の頭で考えて、工夫して、勇気を持って踏み込んでいく。
僕は、踏み込む側でありたい。自戒を込めて。
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甲本ヒロトが言った『ルール破ってもマナーは守れよ』に、パンクのすべてが詰まってるんだよな。究極、赤信号は渡っても良いと思う。轢かれて死んだらテメエのせいだ。そんなことよりも、ちっちゃい子供の前でだけは、赤信号を絶対に渡っちゃいけないんです。これこそがパンクです。わかりませんか。
— 三浦 希 (@miuranozomu) 2019年1月8日