ふだんの生活の中で感じた「小さい違和感」を言語化しておこうと思ったので、一本記事を書いてみます。
伝わるべきことがブレると嫌なのではじめに結論を書くと、この記事で言いたいことは
- 弱者の立場に酔うあまり、強くなることをサボりたくない
ということです。
弱いものが当然のように強いものを倒すストーリーへの違和感
実は僕は、漫画とか映画といった創作物の中では「スポ根」がめちゃくちゃ好きです。
そういった漫画の中で必ず登場するのは、主人公が「最後に負かすべき強者」。
ときにはそれは「負け知らずの絶対王者」であり「常に立ちはだかるライバル」であったりする。
彼らははじめから「強者」として描かれ、圧倒的有利な立場でストーリーを展開させるものの、最後には必ず勝負をひっくり返されてしまう存在。
言ってしまえば体のいい「当て馬」。
そういう存在が、魅力的なストーリーにどうしても必要というのはわかる。
わかるけど、それでも僕は「強いものの側」に気持ちを置いていたい、と思っています。
あふれかえる「判官贔屓」は弱者のままであることを肯定してしまう
「弱い者が主人公」というのは魅力的だし「もとより失うものはない」という上昇気流のストーリーは気持ちのいいもの。
なにより、そんな主人公が逆境をひっくり返して勝つのは、たとえはじめからそうなると分かっていても爽快なもの。
でも、そんなとき僕は「強者がこれまで積み上げてきた時間」に目を向けたい。
強者は、はじめから強者であったわけじゃない。
描かれてなくても、そこには強者になるまでの「過程」があったはずで。
そして、それはきっと、主人公たちが積み重ねてきた時間に負けないくらい尊いもののはずで。
それを、ストーリーの小手先で簡単にひっくりかえしてしまうことに馴れてしまうこと。
それは「弱いままでもいい」という価値観を醸成してしまいかねないな、と思ったわけです。
それが良いとか悪いとかはともかく、ね。
強者になることが「行き止まり」なのは、せつない。
初めて「ポケットモンスター」をプレイして最後に宿敵のライバルに勝った時、僕は勝ったことの嬉しさなんてどうでもよかった。
それよりも「ライバルもここまでちゃんとポケモンを育ててきたんだな」というところに思いが動いて、ひとしれず鼻の奥がツーンとしたものでした。
中学生の時に「スラムダンク」の最終巻を初めて読んだ時も、コートを引き上げる山王に対して「なんで彼らは負けなければいけなかったんだ」という気持ちになったのを覚えています。
どことなく、強者はいつも「ここで行き止まり」という運命を背負わされているように思えます。
あとは倒されるのを待つだけ、みたいな。
でもそれって、あまりにも切ない。
なんでもないところから強くなったはずの彼らのそばに、もうちょっと気持ちが置かれていてもいいんじゃないか。
まとめ:僕は強者の側に気持ちを置いていたい。
よく創作では、強いものを弱いものがひっくり返して勝つ、という構図があって、それは憧れるししびれるけれど、誰よりも練習してひたむきに向き合ってきたはずのそのひとを、脚本の小手先で簡単に負かすのはおかしいなって思う気持ちもある。がんばりたい。
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年3月21日
今の時代、無思考でいると「弱いままでいい」という価値観に心の針がふれすぎてしまう。
だから「弱者のままでいることを許容してしまうこと」への危機感や違和感を大事にしていきたい。
もちろん、必要以上にマッチョになる必要はない。
けど、気をつけないと飲み込まれてしまいそうだ。
そういう感覚を忘れたくないと思って、この記事を書いています。
いつか挑戦者にとっちめられるとしても、強くなることに前向きでありたい。
そして負けるときは最高にカッコよく立ちはだかりたい。
「もうこれでいい」と言うのは、いつか死ぬその時までも言いたくない。
いつまでも「もっと強くなりたい」と思う純粋な気持ちを持ち続けたいと思っています。
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