先日、インターネットという市場に評価されるブログと言うシステムはフェアだと思う、ということを書きました。
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それに関連して「ひとから評価される」ということについて考えたことを書きます。
結論から言うと「他人が下す評価などあてにならないし、だったら自分がやりたいことを納得できるようにやりきったらいいのでは」という話です。
自分を評価してくれる人間の範囲はできるだけ広くとったほうが良い
人の評価というのは基本的にてんであてにならない。だけど自分の外からの評価というのは基本的に必要。だから「評価してもらう相手を広くとる」というのは間違ってない。1割でも賛成派を獲得できたらその調子で絶対数を増やしていけばいいだけの話。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年5月27日
逆にいうと、ひとりとかふたりのにんげんの評価で自分の評価が決まるのは最悪なんだろうな〜。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年5月27日
ぼくは、個人が下す評価というのは、てんであてにならないものだと思っています。
必ずその人の持つ「バイアス」がかかっている。
思えば、オリンピックのフィギュアスケートとかでも、極端な採点は弾かれる仕組みになっていますよね。
つまり、ひとは「個人では客観的な評価を下すことなどできない生き物」なんだと思うんです。
もうそれは、人間性の問題などではなく、「人間はそういう生き物」というレベルの話で。
それはどうしようもないことだし、ましてや他人が下した評価を変えることなんて、もっと不可能。
そしてこれは、オリンピックみたいな大きな話に限らない。
普段の会社勤めでの上司からの評価や、ブログ運営へのレスポンス、自分が作った作品へ寄せられる意見。
そういう他者との関係すべてに当てはまるものだと思います。
だから、たとえ自分が思っているよりも低い評価をくだされたとしても、それを全てと思い込まないことが大切。
また、逆に、自己評価よりもよりも良い評価をもらって有頂天になるのも同じくNG。
そんなものに振り回されるのが一番もったいない。
重視すべきは個人の評価よりも、マスから見出されたバイアスのかかっていない客観的な評価。
そういう意味で、自分を評価してくれる人間の範囲はできるだけ広くとったほうが良いと思っています。
まとめ
真に客観的な評価というのは、マスの中からこそ生まれる。
そのためには、自分を評価する人間の範囲をできるだけ多くとることが大事。
ま、でも、上で言ったこと全てを覆すようでアレですが、言ってみれば「評価なんて所詮評価」なんですよね。
実効的な影響力なんて無いし、直接的に自分を制限するものではない。
ひとからどう思われようが、それらが自分の人生に与える影響なんて、ものすごく小さいと思うんです。
いつだって自分を縛るのは自分自身。
だったら自分が納得できるように行動していったほうが良いわけで。
他人からよくわからん評価をされてもいちいちそれを気にする必要はない、もし参考にするならマスの意見に耳を傾けろ、ということですね。
これは、先日書いた、鈍感力を高めるというところにもつながっていく気がしますね。
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あと「人の評価はあてにならない」ということは、裏を返せば「自分も他人のことを評価することなどできない」ということなんですよねー。
それについては、長くなるのでいつか書けたら書きたいです。