最近ずっと考えて続けていること。
それは「言葉にすると消えてしまうことがある、はきれいごと」というもの。
ちょっと前まで、僕は
- 言語化する過程で失われていく情報は必ずある
- その些細なディテールを大事にしていきたい
- だから、できるだけ「言語化」はしないほうが良い
と思っていました。
でもこれって聞こえはいいけれど、それはある意味「逃げているだけなんじゃないか」とも思ったわけです。
今日はそのことについて、いま思っていることを書いておきます。
言葉にしない限りは、価値観は塗り変わらない
僕は「自分の価値観をアップデートすること」がものすごく好き。
いつまでも同じ自分でいたくない。
どんどん変わっていきたい。
そこでやっぱり強く思うのは「どんなに良質なインプットを得ても、言葉にして思考しない限りは、自分の価値観は塗り変わらない」ということ。
何かをインプットしたら、
- 感じたことをちゃんと言葉にして
- ブログなどでアウトプットして
- それを時間が経ってからまた眺める
それを繰り返していくことで、初めて前に進める。
例えるならこれは、自分の内面の壁の色を、絶えず塗り替えていくような作業。
言語化とは、自分の内面の壁を塗り替える「絵の具」を作ること
ラピスラズリを砕いてつくられる絵の具に「本瑠璃」というものがあります。
画家は、宝石を砕いてつくったそれを、絵筆に乗せて絵を描いていたといいます。
それと同じように、僕は「インプット」という宝石を取り込んでも、それを自分の言葉で言語化しない限りは自分を塗り替えるための「絵の具」をつくれないと思っています。
どんなに硬くても、自分の力で小さく噛み砕いて、自分が使える「絵の具」をつくる。
そうしてつくった絵の具で、自分の内面の壁を少しずつ塗り替えていく。
そうしなきゃ、どんなに優れたインプットも「眺めて美しい置物」のまま。
「言語化」という行為は、そういう「絵の具化」の作業なんだと思います。
まとめ:宝石を手に入れたとき、それを砕いて絵の具にできるか。
宝石を手に入れたとき、多くの人はそれを観賞用としてそのまま大事に保管するでしょう。
でも一方で、それを粉々に砕いて「絵を描くための道具」に変えてきた人達もいる。
どっちが正しいなんてことはない。
けれど、僕は「宝石を砕いて絵の具として使ってしまえるひと」がかっこいいと思っています。
そして、自分もそうでありたい、とも。
なぜなら「かっこいいからそうなりたい」というのは、最強にシンプルでピュアな動機で、それに従うことを大切にしたいと思っているからです。
ものすごく深い考察。自分に入ってきた異物を噛み砕いて血肉にして、そして使いたいときにスッと出せるまでにはものすごい過程がある。詰め込み教育でなくて、ほんとうの「学ぶ」の意味。
知識のひきだしの整理整頓の話|桜林 直子(サクちゃん) @sac_ring|note(ノート) https://t.co/A5GPlSM03c
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2018年5月4日