誰もが一度はやってしまったことがある「わかったふり」。
心の何処かではまずいことと思いつつ、ついついその場のノリで話を合わせてしまうことがあるもの。
この行動について「いい加減どうにかしたいな〜」という気持ちが高まってきたので、ここらでこの行動や心理についていっぺんちゃんと向き合って考えてみることにしました。
で、考えた結果、いまでは「わかったふりは百害あって一利なし」という結論に到達。
せっかくなんで、その思考をメモがてら記事にしておこうと思います。
「わかってないこと」は特別恥ずかしいことじゃない
これまでの経験からだけど、わかったふりというのは、やられた方はほぼ100%気がついている気がします。
(もちろん相手に確かめたこともないし、うまく話を合わせられてしまった場合はこちらも気が付かないのであくまで推定)
少なくとも「わかったふり』をしてしまったあとは自分が気持ち悪い。
なので、だったらはじめからわかったふりはしないほうが懸命だよな〜と思います。
面接とかでわかったふりで話を合わせても後で苦しくなるのは自分。
「わかったふりをしてあとで全力で調べる」というのは自分を追い込むことでよい発奮材料になるかもしれないけど、これはなかなかリスキー。
よくよく考えてみれば、そもそも「あるジャンルについてもれなく抜かりなく完全な理解を持っている」という人のほうが少ないはず。
そう考えてみれば「わかってないことがある」ってことは特別恥ずかしいことじゃない。
「わかってない」ことに対する抵抗感をなくすことがはじめのステップといえるかも。
「せっかく人に聞くならもう一段深く掘ってみよう」につなげる
わかったふりをしないというのは、多かれ少なかれ、ある種の苦味をともなうもの。
それならいっそ、それを踏み台にしてもっと深くまで踏み込んでみたらいいのではないかな〜と思います。
これがふたつ目のステップ。
「転んだらタダでは起きない」の精神に近いかも。
新しい知識を獲得していくときも「ただ教わっている」という状況から、どこかで自分で主導権を取ることが大事。
そこでいちばん簡単な方法が「わからないふりをしない」ということだと思います。
経験上、お手軽に得た知識ってすぐ忘れるけど、(恥を忍んでまで)ひとに訊いたことって絶対に忘れない。
そして、そこまでして得た知識なら、「せっかくだしもう一丁深く掘ってみるか」と考えられたら良い。
せっかくなら「わかってない」という立場を活かし切って、ひとつでもふたつでも積み上げられたらいいよね。
素直に「わかってないから教えて」と言えるひとはかっこいい
「わかったふりをしない」ことについて考えていくと、つまりは「じぶんのプライドを捨てられるか」という話に行き着きます。
わからないことを認めることは、ちょっとかっこわるい自分を掘り出されるようで嬉しいものじゃない。
だから無意識のうちにじぶんのプライドを優先させてしまって「わかってるふり」をしてしまう。
だけど、だからこそ「わかってないから教えて」といえる人はかっこいい。
そういうプライドを捨てられる器のでっかさや、向上心が見えるから。
さらにいえば「自分がどこまでわかっていて、どこから先がわかっていないか」を正当に自己評価できているのは結構すごい。
こうしてみると、なんだか、わかったふりをしない人間になれるかどうかは「自分の力で自分の価値観をひっくり返せるかどうか」が鍵な感じがしてきます。
まとめ
「わからないことを悟られない」ことと、「素直にわからないといえる」こと。
やっぱ後者のほうがかっこいい。
こうしてかんがえてみると「わかったふりは百害あって一利なし」という感じがします。
あと、やっぱり大事なのは「自分で自分の価値観をアップデートできるか」という話ですね。
それができるひとは、もっと自分が生きやすいように自分と周りを変え続けていけるはず。
学校じゃあんまり教えてくれなかったし、むしろ「変わらぬことの美徳」を教え込まされるけど、こうして「自分で自分を変え続けていく」ことは、生きていくうえでけっこう重要なスキルのような気がするな〜。