何度か書いている「コスパ」についての話。
自分の思考にアップデートがあったので記事にしておきます。
コスパを追い求めることは「借り物のたのしみ」の中に身をおくこと
コスパを追わないことは、正解を追わないということなんだな。知っててもその道は選ばない。
— 煮え湯@追いかけ更新中 (@nieyu365) 2017年6月7日
あー、コスパというのは、いわゆる「思考停止」だ。だからおもしろくないんだ。正解だから。もう分かり切ってるから。そこに入っていっても面白さはない。
— 煮え湯@追いかけ更新中 (@nieyu365) 2017年6月8日
「コスパ」は「意外性」の対極にある概念なんだな。もう全ての要素がハマりきってて、動く余地がない。それが決まりきったところに足を踏み入れても、もう自分では何にも動かせない。
— 煮え湯@追いかけ更新中 (@nieyu365) 2017年6月8日
やっぱり「自分の手で動かせるもの」に惹かれるんだろうなー。余地があるもの。変えていけるもの。つくれるもの。
— 煮え湯@追いかけ更新中 (@nieyu365) 2017年6月8日
それが結果的にコスパとは程遠いヘンテコなものになろうが、それが一番愛せる。逆説的だけどそれが「いちばんコスパの良い遊び」なんだろうな。最高に遊びつくせる。
— 煮え湯@追いかけ更新中 (@nieyu365) 2017年6月8日
わかりきっている正解の範囲内で遊ぶのか、それとも自分の脳みそと体を使って新しいフィールドを開拓するのか。
どっちでもいいし、どっちも楽しいと思うけど、最近はコスパから離れたところで遊びたいなーという思いが強くなってきています。
自分で作った料理をやたらおいしく感じるときみたいに、その成果物がどんなにヘンテコでもうれしい気持ちになれる。
他者の評価からはなれたところで、損得抜きに遊べる。
やっぱり、自分の手と頭で確かめたものは、その費やした時間を含めて、愛せるんじゃないかな。
その過程で、コスパを求めたショートカットではすっとばしてしまうような多くのことを学ぶことができる。
「借り物の楽しみ」でほんとうにいいのか?
「コスパ」にこだわるということは、「借り物のたのしみ」のなかに身を置くということだ。
— 煮え湯@追いかけ更新中 (@nieyu365) 2017年6月8日
コスパを気にしないというのは、すでにある程度満たされている状態にないと取れない選択で。
ざっくり言えば「ショートカットせずにあえて過程を楽しむ」というのは、結果を求められていない状態でこそできるもの。
そういう意味でも、かなり「娯楽」ととしての側面が強くなる。
既製品の楽しみを買うのか、それとも自分で楽しみを作り出すか。
まー、べつにこんなことはどっちでもいいと思う。
大事なのはケースバイケースで使い分ける意識を持つこと。
なんでもかんでもコスパを求めるのはナンセンスだし、なんでもかんでも自分でやろうとするのもきっと無理。
ほんとうに自分が好きなものに対して時間を費やすことができなくなっちゃうからね。
思考停止せずにバランスをとって、ここぞ!というところで「非効率」をたのしむ。
つまるところ「無駄こそが楽しい」という話なのかもしれないね。
まとめ
ただひとつ言えるとしたら、自分の時間を投下する価値のある、夢中になれるものをみつけられたら、それはコスパ重視で済ませるのはもったいないということ。
人生は短いんだから、自分が情熱を捧げるものをみつけたら、そこにできる限りの時間を投下していきたい。
そうすればそこから得意なことやお金になることが生まれてきて、結果として自分の生きたいようにいきていけるようになるかもしれないな、という話ですね。