ふとしたきっかけから、リアル社会で生きていくにあたって「これと決めたものを信じられる心」というのが大事だと思ったという話です。
リアル社会では「これと決めたものを信じられる心」が必要
何が正しいかを見抜くスキルとか知識っていうのはわかりやすくて訓練もしやすい。知識は学校でだって教えてくれるし意識して身につけるのも比較的簡単。だけど「何かを信じてそこに自分の資源を全力でぶち込む」ためには「それを正しいと信じる心」がないと実際の行動には移れない。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年3月2日
ひとの能力には、スキルのようにある一定の訓練を受けることで伸ばせるものがある。
でも、そういうところばかりを伸ばしていってもどこかで頭打ちになる場合があるのはなんでかな〜と思っていました。
「ジャンプ」が必要な時、教科書的なスキルは役に立たない
スキルを身につけたり勉強をするのはもちろん大事だけど、適切なタイミングでその成果を発揮するには「信じる心」が必要ということなのかねぇ。実務的なスキルと信じる心は車の両輪で、単に頭でっかちなだけだと「準備は万端だけどいざという時に飛び出せない」パターンになっちゃうのかもしれない。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年3月2日
そして、そういう土壇場の場面では「何かを信じられるか」というよりは「(それを正しいと判断した)自分を信じられるか」という問題になるのかなぁと思う。結局は「自分」に帰着する。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年3月2日
スキルを一生懸命に伸ばしていても、どこかで頭打ちになってしまう原因。
それはスキルだけでは「ジャンプ」が必要なところで躊躇してしまうから。
スキルがあれば、上から降ろされたロープをたぐってするすると登っていくことはできる。
ロープのたぐり方は「スキル」で、それはもう身につけているから。
でも、どこかで「スキル」だけでは乗り越えられないような壁にぶち当たる。
たとえば、もう先がないいまのロープから手を離して、隣のロープに空中でジャンプできるかどうか、という場面。
自分を信じることができないと、そこで飛ぶことができないんだと思う。
スキルさえちゃんと磨いていれば、間違いなくある程度の上位層には食い込める。
だから、スキルを磨けば磨くほど「ジャンプして下に落ちるくらいならこのままでも充分だ」と思ってしまうのかも。
ここで迷いなくジャンプできるタイプの人間が「変人」と呼ばれているような気もする。
何かを本気で信じられるかということは、つまるところ「それを信じる自分を信じられるか」という話
何かを本気で信じられるかということは、つまるところ「それを信じる自分を信じられるか」という話なのかもねぇ。いつだって問われるのは自分自身ということか。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年3月2日
「自分を信じる」っていうと、なんだかマンガとかファンタジーの中だけでの話みたいな感じするけど、超リアルに取り組まなきゃいけないテーマなんだよねきっと。
— 煮え湯 (@nieyu365) 2017年3月2日
スキルさえ磨いていれば、80点は取れるようになる。
だけどそこからもっと上に登っていくには、それだけじゃ足りない。
逆に言えば「スキルさえ伸ばしていれば誰でも80点には到達する」というのがあるから、学校とかではスキルを重視するのかもしれないなー。
基本的にベースとしての「スキル」があって、その上で「自分を信じきれる心」が必要になる。
だから、とにもかくにも、まずはスキルを伸ばす。これはきっと正しい。
スキルがなけりゃ最初のロープすら登り始めることができないから。
でも、そこで思考停止しているパターンがとても多いと思う。
どうもベースのところばかり目が行き過ぎで、その先の部分に光が当たっていないような気がするな〜。
それとも無意識のうちに、ぼくを含め世の中の多くのひとが「スキル」より先の部分を見て見ぬふりしているのか……。
なぜならそれは「隣のロープにジャンプするなんて、落ちるのがこわくてできない」から。
ある意味まっとうな判断なのかもしれない。
まとめ
「自分を信じる」というのは漫画によく出てくるお決まりのテーマで、現実社会と乖離していると思いがち。
でも、実はその能力は現実社会でもある場面で強く求められていて。
「自分を信じること」はファンタジーでもなんでもなくって、リアルに向き合わないといけない問題なんだろうな。
どんどん先へ、うまく進めているひとは、スキルを伸ばす過程で揺るがない自信を身につけているか、はじめっから根拠のない自信に包まれているかのどっちかなのかな。
でも前者はやっぱり「計算」してしまうから、ためらいなく次のロープに飛び移れるのは後者だと思う。
このへんはまた考えて、なんか思いついたら記事にしていきたいです。