自分の価値観を絶えずアップデートしていきたいと思っている。あっちにふれたりこっちに行ったりもするけど、それを含めた極めて流動的なものこそが「価値観」だと思う。硬直的なものは価値観ではなく「思い込み」なのではないかなー。変わっていくことは良いことだ。
— 煮え湯@yawn (@nieyu365) 2017年7月11日
「価値観」は絶えず変わっていってこそ健全なもの
価値観とはあっちにふれたりこっちにいったりする、極めて流動的なもの。
社会が共有する価値観も時代とともに徐々に変わっていくし、個人の価値観なんてなおさら。
「昨日まではAが正しいと思っていたから、もうAを裏切れない」っていうふうに考えるのはほんとうにもったいない。
ムダなマイルールで自分を縛り付けるのはマジで誰得。
関連記事:自分を変えられるのは自分だけだし、自分を最後まで縛り付けるのもいつも自分
間違ってたことに気がついたり、今の自分とあってない事に気づいたら、もうその瞬間に生まれ変わったらいい。
それをしないようにしているのは、実のところ自分自身何だと思っています。
「思い込み」を大事に抱え続ける必要はない
価値観とは、自然に変わっていくもの。
だとすると、ずっと変わらないものはちょっと不自然。
それは「価値観」ではなくて、自分がそういうふうに固定してしまっている「思い込み」なんだと思う。
ぼくにとっての「価値観」とは、柔軟性と好奇心を湛えたもので。
ほうっておけばどんどん形を変えていく、生き物みたいなもの。
それをひとつの形に押し込めて固めてしまうのは、なんとももったいないと思うわけです。
人間は矛盾した存在だし、むしろ矛盾してなんぼ。
そのへんのところを受け入れていくと、なんだかラクに生きていけるような気がします。
そもそも価値観ってひとつじゃないといけないの?
余談だけど、このごろよく考えるのは、異なる価値観はひとりの人間の中に共存できるのか、ってこと。
個人の中に宿る価値観って、なんとなくひとつじゃないといけないと思っていたけれど、それってただのまやかしなんじゃないかと思っています。
別に自分の中の価値観とか正義っていうのは、ふたつでもみっつでもよいんじゃないか。
そんなふうに思います。
まとめ:価値観は自分の内側と世界をつなぐ「窓」
自分が世界をみる時、その景色を自分から狭めなくてもいいと思う。
そのときに見たいように見ればいい。
それは時とともに変わっていくだろうし、なんならいくつも窓があってもいい。
ただ、ひとつ思うのは、ずっと同じ窓から同じ景色を見ているだけでは、人生をたのしみきれないんじゃないかなってこと。
だったら、いろんな見方をみつけて、どんどん次から次へと変わっていったらいい。
誰もそれを止めないし、誰もあなたを縛り付けてなんかいないんだから。
年をとって肉体的に老いていくとしても、感性だけは若いままでいたいなーと思っています。